「自転車依存症」(白鳥和也著)。
最近、書籍はもっぱらamazonマーケットプレイスでの購入が多いのですが、この本もその1つ。
自転車文学研究室 白鳥和也という著者は、私より3つ年上なので今年が最後の40代ということになる。自転車歴もそうとう長い立派な自転車依存症、もといベテランサイクリストの方です。どっぷりはまったサイクリストにもさまざなタイプがいると思いますが、この方はかなり立派な”闘ビョー生活” を送っていらっしゃいます。しかも文章が面白いので、純粋に楽しんで読むことができました。
熱狂的なサイクリストは自然発生的に自転車が増えるらしい。たちまち保有台数二桁となるそうだ。別に金持ちだけではなく、もらいものやら廉価ものまで含めて増えるのだ。どれくらいまで増え続けるかは、「自転車を置くために持てる空間と、それらを管理できる時間と情熱と財力と、家族の許しを得るだけの小さな政治力と。」といった器量によって違うそうです。最後の「家族の許しを...」の部分が一番手強かったりして...
増え続けてしまった自転車を減らすための章で、「出る」「出す」は、「入る」「入れる」より優先するという理論はなかなか面白いので興味のある方は読んでみるといいでしょう。
実は一昨年の夏〜秋頃に私が自転車に乗ろうと思ったきっかけのひとつに健康のためというものがありました。でも自転車乗りの本音は違うというのは、今の私なら100%理解できる気がします。
健康のために乗りたいのではない。好きな自転車にいつでも乗れるくらいには、健康でいたいと思うのである。順番が逆なのだ。
確かに自分たちから見た自転車好きといわれる人達で純粋に健康のためだけに自転車に乗っている人は見当たらない。さらにこう続く。
俺たちは、いや、われわれは、健康や環境に良いから自転車に乗っているわけではない。それはありがたい福次効果や乗り始めの動機であったとしても、長年乗り続けているサイクリストの第一目的ではない。たまに落車したり、怪我したり、それでも面白いから自転車に乗り続けているだけなのだ。環境に無害な燃料電池ができて、それで走る軽快な単車ができたとしても、そんなものに、われわれは、はなから興味はない。少なくとも私はそうだ。われわれは、ぜーぜーはーはー、肺機関による二酸化炭素を吐きつつ、それが環境に良くないと言われても、黙れ外野、と叫んで自転車には乗り続けるであろう。
私も自転車に乗っているときに事故に遭遇して骨折したけれど、もう乗りたくないと思ったことはただの一度もありませんでした。この辺りは理解できない人も多いかも知れませんが、自転車仲間にはわかるはずです。
著者は、ランドナーがメインで、さまざまなタイプの自転車に乗っているようですが、自転車という乗り物に対しての機械以上の奇妙な一体感を語っています。磨いてきれいにしてやったり、部品を変えてみたり、手をかけて愛着がわいていくのである。磨く云々はかなり個人差があるようですが。
後半は、著者をはじめとしたサイクリストがはまっている自動車、カメラ、鉄道、オーディオ、音楽、模型などに話が移っていく。私の周りにも、カメラも趣味としている人もわりといるようなので、確かに関連性はありそうだ。
あくまでサイクリストを対象に考えているという前提で、ニコンを使う人は真面目、キャノンを使う人は良きにつけ悪しきにつけ玄人、オリンパスを使う人が割とスマートという傾向があるような気がするなか、コンタックスを使う自転車乗りはどうも癖のあるのが多い。
私はカメラのことはよくわかりませんが、どうなんでしょうね?
鉄道ファン、いわゆる「鉄ちゃん」のことはもっと知らないのだが、「鉄ちゃん」にも「撮り鉄*1」、「乗り鉄*2」、「音鉄*3」、「蒐集*4」などいろいろなタイプがあるそうです。著者は輪行する人を「銀鉄」と命名している。この辺を読んでいると、今年の目標である輪行がしたくなってきました。半年以上前に購入したきり開けてもいない輪行袋をあけるとこから始めなきゃ。(^^;
もう1つだけ気に入った分を引用させてもらいます。
サイクリストが仲間だと認めるのは、本当に好きで自転車に乗るやつだけである。自転車に乗らなければならない必然性はないのに、そこに自転車があり、道があり、上り坂があるから、ただそれだけで自転車に乗る、そういう阿呆だけである。
まさにそうなんです。私も自他共に認める(軽度な)自転車依存症ですが、著者も言っているように、「ビョーキ」がひとつぐらいあった方が、むしろ人は長生きするし、自覚しているのであれば、たいがいは健全なのです。:-)